小学5年——突然の転校
小学5年生のはじめ、家族は市営住宅から一軒家に引っ越しました。それに伴い、私は転校することになりました。
この引っ越し自体が、父親の一方的な判断でした。母親は反対していたようですが、最終的には従うしかなかった。家の中での意思決定は、いつも父親が一人で下し、母親の意見が通ることはほとんどありませんでした。そういう家庭でした。
転校が決まったとき、両親は兄のことを気にしていました。「お兄ちゃんはかわいそうに、友達と離れることになって」と。兄は5年生に比べると転校の影響が大きい学年だったのかもしれません。でも、私のことを心配する声は、記憶の中にありません。兄はかわいそうで、私はそうでもない——というより、私の気持ちは最初から考慮の外にあったように思います。
新しい小学校——少人数、熱血、そして暴力的な先生
転校先の小学校は、前の学校とはまったく雰囲気が違いました。
クラスの人数が24人ほどで、前の学校(40人近く)に比べて少なく、先生との距離が近い感じがしました。先生は下の名前で生徒を呼ぶスタイルで、最初は戸惑いましたが、それがその学校の文化だったようです。
担任の先生は、非常に熱血な男性でした。授業に熱が入っていて、クラスの雰囲気も活気がありました。ただ、その熱意は時として暴力に向かうことがありました。言うことを聞かない生徒をひっぱたく、というような指導が日常的にありました。今ならあきらかにアウトな行為ですが、当時はそういう先生も少なくなかった時代です。
転校生として入ったこともあり、最初はクラスに馴染むのに時間がかかりました。でも、もともと人と関わることは好きだったので、時間が経つにつれて友達もできました。
登下校の道——不良の先輩に絡まれる日々
新しい学校は、家から30分ほど歩く距離にありました。
帰り道に問題がありました。通学路の途中に、地元の中学生がたむろする場所があったのです。彼らは小学生を見つけると、絡んでくることがありました。具体的には立ち止めて脅したり、持ち物を奪おうとしたりといった行為です。
毎日その場所を通るたびに、緊張していました。友達と一緒のときはまだよかったのですが、一人のときはとにかく足を速めて、なるべく目立たないように通り過ぎるようにしていました。
家でも気が休まらない。学校の帰り道でも気が抜けない。子どものころの私にとって、「安全だと感じられる場所」は本当に限られていました。
中学校へ——3校が集まる新しい環境
中学校には、近隣の小学校3校から生徒が集まりました。1クラスあたり30人ほど。顔見知りでない人間と同じクラスになることも多く、関係をゼロから作り直す必要がありました。
成績は「中の中」といったところでした。特別得意な科目があるわけでも、壊滅的に苦手な科目があるわけでもなく、ごく平均的な生徒でした。
進研ゼミも使っていましたが、正直なところ勉強のためというより、教材についてくる付録や懸賞目当てで続けていたようなものでした。勉強に身が入らない理由が、家庭環境にあったことは、大人になってから気づきました。
部活はバドミントン部に入りました。もともと陸上部に入ろうと思っていたのですが、気づいたらバドミントン部を選んでいました。深い理由はなく、なんとなく流れでそうなった、という感じです。
父親から逃げる日常
中学生になっても、父親への恐怖は消えませんでした。
父親が帰宅する時間になると、私は2階の自分の部屋に引っ込むようにしていました。1階にいて父親と顔を合わせることを、できるだけ避けていたのです。何か言われるかもしれない、怒鳴られるかもしれない——そういう緊張感が常にありました。
夕食のときだけは1階に降りなければなりませんでしたが、それ以外の時間はできる限り2階にいました。今思えば、それが私なりの「安全確保」だったのだと思います。
兄との関係——廊下でのすれ違い
兄との関係は、相変わらずでした。
ある日、廊下でたまたますれ違ったとき、私が「ただいま」と声をかけました。兄はそれを無視して通り過ぎ、少し経ってから振り返って笑いながら言ったのです。「あ、今の無視した」と。
悪意を持ってやったわけでもなかったかもしれません。でも、その一言は刺さりました。私の存在が、兄にとってそれほど軽いものなのだということを、あらためて実感させられる瞬間でした。
お下がりの服、できる兄
兄のお下がりの服を着ていました。
新しい服を買ってもらえないわけではありませんでしたが、多くは兄が着古したものを渡されていました。当時はそれが「普通」だと思っていましたが、学校に行くと自分の服が友達のものと違うと気づくことはありました。
兄は頭も良く、絵も上手でした。聖闘士星矢やガンダムのキャラクターを、手本なしでスラスラと描けてしまう。周囲の大人からも「お兄ちゃんはすごいね」と言われることが多かった。
父親が兄だけを特別扱いしていた理由が、少しだけわかる気がしました。でも、わかったからといって、自分の気持ちが楽になるわけではありませんでした。
友達の家が、逃げ場だった
小学生の頃と同じように、中学でも友達の家によく遊びに行きました。
家の中にいるよりも、友達の家にいる方が気が楽でした。友達の親が温かくしてくれることも多く、「ああ、こういう家庭もあるんだ」と思うことが何度もありました。
ただ、当時の私の家のルールで、18時30分を過ぎると外にいることが許されませんでした。時間が来ると友達の家を出なければならず、急いで帰る日が何度もありました。それでも、外にいられる時間は貴重でした。
夜尿症——体が出していたSOS
中学生のころ、夜尿症(おねしょ)が続いていました。
思春期の中学生がおねしょをする、ということは、自分でも恥ずかしいことだという認識がありました。誰にも言えず、一人で隠していました。
当時は単に「自分がだらしないせいだ」と思っていました。でも、産業カウンセラーの養成講座を受け、心理学を学んでから振り返ると、慢性的なストレスや不安が身体症状として現れていたのだと理解できるようになりました。家庭の中の緊張感が、ずっと体の中に積み重なっていたのです。
体はきちんと、助けを求めていたのだと思います。当時の自分には、それを受け取れる大人が周りにいませんでした。
高校進学——「兄が行ってるから」
中学3年生になると、高校受験の話が出てきました。
志望校を決めるとき、私はあまり深く考えませんでした。「兄が通っている工業高校があるから、そこに行こう」。それだけの理由でした。
推薦入試で合格し、そのまま工業高校に進学することになりました。自分がどういう将来を歩みたいか、どんな高校生活を送りたいか——そういったことを真剣に考えた記憶がありません。
今振り返ると、自分の意思や希望を持つことが、この時期の私には難しかったのだと思います。家庭の中で「自分の気持ちを表明しても意味がない」という経験を積み重ねてきた結果、外でも自分の欲求や選択を主張することへの回路が育ちにくかったのかもしれません。
投稿者の所感
小学5年から中学3年までを振り返ってみると、「安全な場所がなかった」という感覚が一貫してありました。
家では父親への恐怖と兄からの軽視、通学路では不良の先輩、学校でも緊張の連続——どこにいても完全にリラックスできる場所がなかった。それでも友達との時間や、家の外での時間が、細い糸のように私をつなぎとめていたように思います。
夜尿症の話を文章にするのは、今でも少し勇気が要ります。でも、それを書いておくことに意味があると思っています。「だらしない」「弱い」という問題ではなく、環境が子どもの体にどれほど影響を与えるか——それを伝えたいからです。
次の記事では、工業高校での3年間について書く予定です。
参考書籍
同じような環境で育った方、あるいは身近な人の思春期を理解したい方に向けて、参考になる書籍を紹介します。
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